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八重桜と白鳥の里:瓜連の歴史を調べています

令和元年度活動報告report2019


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定期総会(2019年度)
 定期総会(2019年度)を開催しました。
日時 :平成31年4月12日(金) 13:30〜14:10
場所 :らぽーる 視聴覚室
出席者:50名

議事内容
 (1) 「2018年度事業報告」を承認
 (2) 「2018年度収支決算及び会計監査報告」を承認
 (3) 「2019年度事業計画(案)」を承認
 (4) 「2019年度事業予算(案)」を承認
 (5) 「2019年度『瓜連・歴史を学ぶ会』役員(案)」を承認
 (6) 10月の歴史探訪:行先の選択について討議




講演会「斉昭の藩政について」

日時 :平成31年4月12日(金) 14:15〜15:45
場所 :らぽーる 視聴覚室
出席者:50名

那珂市民俗資料館館長仲田昭一氏(本会顧問)を講師として、
「斉昭の藩政」と題し、講演会を開催しました。



講演概要
(1) 斉昭肖像
 天保5年(1834)3月8日、斉昭は瑞龍山(水戸徳川家墓所)参拝の途次
浄鑑院常福寺(当時は常福寺は現在の那珂二中付近にあり、
瓜連は隠居寺であった)に立ち寄った。その際、斉昭の肖像画が寄進された。
その肖像画は、宝物の一つとして常福寺に伝えられている。
(2) 常福寺2世了誉聖冏上人(りょうよしょうげいしょうにん)600年忌
 2019年は了誉聖冏上人の600年忌にあたり、金沢文庫、増上寺などの
浄土宗寺院が一体となり10月にフォーラムが開催される予定である。

(3) 斉昭の生涯
@ 寛政12年(1800) 武公治紀(はるとし)の第3子として誕生
A 養子に出ることなく「亀の間」(部屋済み)で過ごす。
  (藩主への準備期間;将来の藩政改革につながる思索)
   (a) 学校のこと  → 弘道館建設
   (b) 検地のこと  → 惣領検地
   (c) 土着のこと  → 海岸防備
   (d) 惣交代のこと → 江戸在住家子の水戸引上げ
B 水戸藩主継嗣問題
   幕府からの養子(将軍家斉の子:門閥派)か
   藩主の弟(斉昭:改革派)で対立
   文政12年10月 斉昭が藩主就任
   藩内に門閥派と改革派の対立を残す
C 天保の改革(天保8年(1837))
   「亀の間」在住時代の構想を藩政改革の四大目標として提示
    (藩校・検地・海防・江戸家臣の水戸移住)
D 社寺改革
   天保5年(1834)9月、 神武天皇御陵修復を幕府に建言。
   天保14年(1843)8月、水戸東照宮を唯一神道に改め
             領内の神仏分離をはかる
    水戸藩は「尊王敬幕」の立場であるが、幕府第一ではない。
    改革を急ぎすぎ、地域の反対を受けた。
E 弘化甲辰の国難
   弘化元年(1844)5月、 幕府から致仕謹慎を命ぜられ駒込に閉居
          11月、謹慎解除
   嘉永2年(1849)3月、 藩政関与を許される
F 復権と東湖の最後
   嘉永6年(1853)6月、 ペリーが来航
          7月、 幕府の海防参与となる。
             「海防愚存」を提出(武備充実の上で開国を)
   安政元年(1854)3月、 日米和親条約調印
          7月、 幕府の軍制参与
   安政2年(1855)8月、 幕政参与
          10月、  地震で藤田東湖圧死(ブレーンをなくす)
   安政4年(1857)7月、 軍制・幕政参与を免ぜられる
   安政5年(1858)4月、 井伊直弼大老に就任
          6月、 日米修好通商条約調印。
              不時登城して違勅調印に抗議。
          7月、 急度慎を命ぜられ駒込に幽閉
          8月、 水戸藩に「戊午の密勅」降下
             (水戸藩内の分裂・混迷)
   安政6年(1859)8月、 水戸への永蟄居命令
              尊攘派分裂し藩内混迷
   万延元年(1860)3月、 桜田門外の変
           8月、 斉昭、謹慎中の水戸城中で没する
(4) 教育の一面
 @ 指導者の姿勢;教育のゆるみ→しっかりとした教育の重要性
 A 家庭教育;子息を厳しく育てるように
 B 家臣への書簡;家臣の健康に対する思いやり
(5) 水戸藩の開国志向
 ペリー来航の頃、越前藩主の松永慶永に対して
 「攘夷をとても難しいもの、外国は大砲・小砲にしろ軍備が十分に
  整っている。しかも皆、日本のような小国ではなく大国である。
  かっての武田勢のような軍備では、とても太刀打ちできない。
  それよりは、一度外国と貿易開港する方が得策である。
  若い貴君(慶永)は、その時は是非ご尽力願いたい。自分は今まで
  攘夷の巨魁として世を渡ってきたので変えることはできないが」
 と語っている。その他、斉昭が攘夷の困難さや外国との貿易を晩年には
 志向していたことを示す史料が多く残されている。

 斉昭は自分の思っていることを自分の体面で言わなかった。
 その後の水戸藩の悲劇を思うと残念でならない。

 講演の詳細については、仲田昭一氏により作成された
 下記資料を参考にして下さい。

講演レジュメ「徳川斉昭の藩政」




講演会「幕末の水戸藩・
    天狗と諸生の乱」


日時 :令和元年6月21日(金) 13:30〜15:30
場所 :らぽーる 視聴覚室
出席者:50名

茨城県立歴史館特任研究員の永井博氏を講師として、
「幕末の水戸藩・天狗と諸生の乱」と題し、講演会を開催しました。

講演概要
(1) はじめに
・水戸の党派は、立原翠軒/藤田幽谷が学派の異同に濫觴し、結城寅寿/
 藤田虎之介が政権の争奪に大成し、市川三左衛門/武田耕雲斎が戦闘
 したことで峻烈を極め、武田金次郎等が市川の党をほとんど皆殺しに
 したことで終わりを告げた。
・後半では、勤王/佐幕というような主義・主張の対立ではなく、
 感情の衝突により反目の度を高め、主君を無視し名分を忘れて相戦い、
 無智文盲の徒にも劣りたるありさまとなった。
・どこの藩でも党派対立はあったが、なぜ水戸藩だけが陰惨な結末と
 なったのだろうか?
(2) 水戸藩士の実態
@ 徳川斉昭『告志篇』には、
・「理非にかかわらず、頭の威を以押付」け、「意見立する者も、誠心より
  発せずして、酒の上抔にて嘲笑半分に申述候故、却て争論の端を開」く、
・「君にさへ能奉公すれば、親類朋友の中は如何様にてもかまはぬといふ者」
  がいたり、「常々親友にあらざればとて、其人へは告げずして、人と共に
  朋友への悪事をいひて席上の楽とする」、また、
・「家中の儀は一体の事にて、勤筋は違ひ候とも、国家の為を存候所は相違あ
  るまじき筈なれども、時の弊風にて武士一体なる事を忘れ、文官武官と分
  れ候様に成行、役人の外は政事にも拘らねば、馬鹿にても勤まるなどと
  自分にても怠り、甚しきは少々の悪事をなしても宜きと心得、政事の得失
  役人の善悪等、他国の事にても批判する如くに、よそよそしく心得候弊風
  がなきにしもあらず。」、
 と記されいる。
  水戸藩内では、日頃から藩内の人間関係が破綻し、武士の風紀が乱れ、
 藩の一員としての当事者意識が欠如していたことがうかがえる。
A 藤田東湖『常陸帯』には、
・「江戸の邸と水戸と他国のごとくなりて、定府の人は水戸の人を田舎ものと
  罵り水戸の士は定府の士を軽薄ものと譏り政事の妨になり」
 と記され、水戸藩には、江戸と水戸の間の対立が内在していたことがうかが
 える。
(3) 藩内「党争」の過程
@ 甲辰の国難 − 斉昭の退場…党争のはじまり
・天保15年(1844):
  5月;斉昭致仕・謹慎(藩主は義篤へ)。
     藤田東湖ら改革派が処罰され、結城寅寿らが実権をにぎる。
  11月;雪冤運動により、斉昭の謹慎は解除されたが藩政に関われず
     改革派が左遷され、柳派(非改革派)が相次いで登用される。
・弘化2年(1845):藩の弾圧により対立激化。斉昭復権運動が起こる。
・弘化4年(1847):結城禄半減、慎隠居。会沢、武田、吉成など44人の赦免
・嘉永2年(1849):斉昭の藩政参与認められる。
A 戊午の密勅
・安政5年(1858):斉昭らの「押しかけ登城」。斉昭駒込屋敷急度慎。
         斉昭の謹慎態度不良…慶篤が諌めるも聞かず。
         (斉昭派と慶篤派への分裂)
B 安政の大獄
・密勅関係者の処罰…計69人
・安政6年(1859):
  8月;斉昭…水戸での永塾居。慶篤…差控。
  12月;幕府、朝命をたてに水戸藩へ密勅返納を命じる
     →朝廷への返納を決する。
      長岡宿に水戸藩有志(激派)、実力で阻止を企てる。
・安政7年(1860):
  1月;老中安藤信正…「25日を期して返納すべし。さもなければ嫌疑は
             いよいよ老公に及び、かつ違勅の罪に処せられ、
             水戸家は滅亡のほかはなかろう」(大意)
     →慶篤の意向「天狗を其まゝ指置候得は又如何様の義仕出候哉も
            難計存候間、納メ物相済候上は天狗之根だやしを
            初候より外無之候間、又其せつは井伊殿へも
            御頼ミ申候義も可有之候間、兼而貴兄より被仰聞候
            様致度御頼ミ申置候」(松平頼胤宛て慶篤書状)
     →斉昭の意向「返納を諭すも、なるべく引き延ばしたい」
     →長岡勢は返納阻止が斉昭の本意、と解釈。
  2月;14日に側用人久木久敬、襲撃される。
       斉昭は「自分が返納やむなしと言っている心中は、士民には
          なかなか理解してもらえない」長岡勢追討を指示。
      19日に慶篤は直弼へ長岡勢が江戸に向かった場合、捕縛を要請。
      22日に長岡勢追討の命。
     →弘道館の教員たちと学生(諸生)200人余が向かう。
    23日に長岡勢解散。
C 桜田門外の変
 3月3日関鉄之介ら18名、桜田門外で大老襲撃(襲撃側死者5名、自首8名)
D 筑波山挙兵
・元冶元年(1864):
  3月;藤田小四郎ら約60人が筑波山中腹の中禅寺で
     幕府の攘夷への決断を助けるために挙兵。
  4月;幕府、水戸藩に鎮撫を命ずる。
    筑波勢、諸生ともに「斉昭の遺志」を主張
    水戸藩内の「天狗」と「諸生」の対立が激化。
  8月〜9月;神勢館の戦い、額田原の戦い、那珂湊の戦いなど
  10月〜12月;天狗党の西上、敦賀で降伏
・慶応元年(1865)
  2月;352人が処刑される。
E 戊辰戦争期−藩主不在−
・慶応4年(1868)
  1月;新政府、本圀寺勢に、「奸人(門閥派)を厳罰し、藩政を正常化せよ」
     という勅書(慶篤宛)を下す。
  3月;反門閥派の有志、水戸城を奪還。市川勢、会津の逃れる。
     本圀寺勢、勅書を奉じ水戸城入城。藩主義篤水戸到着。
  4月;義篤死去(藩主不在期の開始)
  閏4月;武田金次郎ら江戸藩邸で10余人殺害。水戸でも20人殺害。
  10月;弘道館の戦い
  11月;徳川昭武、横浜港に帰着。水戸藩主に就任。




 講演の詳細については、永井博氏により作成された
 下記資料を参考にして下さい。

講演レジュメ「幕末の水戸藩−天狗と諸生の乱−」




講演会「倭文織のはるかなる道
    −そのルーツと現在」


日時 :令和元年8月29日(木) 13:30〜15:30
場所 :らぽーる 視聴覚室
出席者:50名

瓜連・歴史を学ぶ会会員の先崎千尋氏(元茨城大学人文学部特命教授)
を講師として、「倭文織のはるかなる道 −そのルーツと現在」と題し、
講演会を開催しました。

講演概要
(1)人類にとって「衣」とは
・人類にとっての最初の衣類は毛皮、あるいは魚の「皮衣」
・縄文の衣は「編布(あんぎん)」:織るのではなく編んで作った布
(2)古代の布ー原始布
・織る機械の発明:1万年前
・布の材料:シナノキ、藤、葛、楮、大麻、カラムシ(苧麻)、絹、紙
・衣類は一生に3着しか着れないもの、大変な作業を必要とするもの
(3)「倭文織の源流を探る」
・瓜連町での調査:1991年に調査を開始。
・調査結果は『倭文織りのルーツ報告書』にまとめる。
・実際に織ることを始めた。
(4)あらためて「倭文織」とは
・素材:
  楮とか、梶とか、カラムシとか、それを青、赤に染めて
  文に織った布。(どのように染めたかはよくわからない)
  絹織物という説もあるが、絹は時代としては新しいようだ。
・用途:
  『延喜式』には「宮中などで神社の祭礼用、お祭り、儀式に
  使っていた」とある。神事、祭事に使われた可能性が高い。
  日常に着るものではなかったと思われる。
・衰退の時期とその原因:
  500年くらいから織りはじめる。当初は鳥取・岡山・淡路島・奈良・駿河・
  常陸などに広く分布。その後、駿河国と常陸国に倭文織が長く残った。
  平将門の時代(900年頃)にはもう無くなった。
(5)新たな発見と疑問
・倭文神社が全国にいくつもあるのは何故か
  倭文部という専門集団がいて、倭文織という織物を織っていた。
  それを貢物として朝廷に納めた。倭文という織物が神事に使われた
  ことから、倭文を織っていた所に倭文神社が作られたと推定。
・大甕倭文神社と富士宮市星の宮倭文神社の共通点
  まつろわぬ民・香香背男を退治する神・倭文神の存在。
  蝦夷退治の最前線基地としての地(静)があったと考えたい。
・倭文部可良麻呂の防人の歌
  可良麻呂は倭文郷の出身と考えていたが、大甕倭文神社のあたりに
  住んでいたのではと最近考えるようになった。
・下大賀遺跡の発掘
  下大賀遺跡で「倭文田長」、「馬長」という墨書土器が出ている。
  倭文郷では倭文織を織り、田んぼも作っていた。また、用役のための
  馬も置いていた。交通の要所でもあった大きな集落だったと考える。
(6)倭文織の復元
・倭文織の復元をやっている3グループ
  南あわじ市倭文(しとおり)小学校
  岡山県津山市倭文地区のNPO法人「倭文の郷」
  瓜連の「手しごと」
・植村和代さんに中心となっていただき、倭文織についてまとめられればと
 思っています。



          講演会の様子(2019年8月29日)

 講演の詳細については、先崎千尋氏により作成された
 下記資料を参考にして下さい。

講演記録「倭文織のはるかな道−そのルーツと現在」
参考資料-1 貧窮問答歌(『新潮日本古典集成万葉集二』より)
参考資料-2 「倭文織のルーツを尋ねて」(「耕人」第4号より)
参考資料-3 「倭文部の戸籍記載」(戸籍鹿の子C遺跡漆紙文書より)
参考資料-4 日本書紀、古事記などの文献や埴輪等に証された姿
     (『原色日本服飾史』井筒雅風著より)
参考資料-5 倭文御裳
      (第62回式年遷宮記念特別展伊勢神宮の神々の美術より)
参考資料-6 視点「町挙げ復活のノロシ」
      (日本農業新聞1992年8月24日)
参考資料-7 先崎千尋のオピニオン古代織「倭文織が復活
      (常陽新聞2005年7月28日)
 




歴史展示会
「幕末・戦中・戦後の我が郷土」


日時 :令和元年8月29日(木)・30日(金)9:00〜16:30
場所 :らぽーる  1階 ロビー(アトリウム) 幕末・戦中
          2階 研修室1       戦後・ポスター等

 かつて瓜連町に生活の拠点をおいておられた住谷登志男氏所有の
資料・ポスター等を契機として、『幕末・戦中・戦後のわが郷土』
歴史展示会を開催しました。
 今回の企画展にあたり、那珂市教育委員会の後援をいただくとともに、
那珂市歴史民俗資料館の協力を賜りました。また、市民の皆様には、貴重な
資料のご提供を頂きました。

展示会の動画へのリンク

幕末・大正

らぽーるの1階ロビーでは、
幕末と戦中の写真を展示。
幕末の水戸藩と黒羽藩の大関家の
関係を示す資料を展示しました。
大正の頃の瓜連地区の写真・
瓜連小学校の写真を展示。
先祖の若かりし姿を見つけて、
思い出話をする人がおられました。


戦中

昭和9年頃の写真から、
「昔はこんなだったのか」、
「子供のころでも同じだった」など
瓜連町仲通り・瓜連町役場などの写真
で思い出がよみがえります。
昭和初期の静神社のお祭り、常福寺の
二十六夜尊と盆踊り大会の写真で少年
時代の瓜連をなつかしむ人がたくさん
おられました。
素鵞神社・郵便局前・瓜連駅頭で出征
兵士を送る写真、戦勝祝賀行事、労力
奉仕の写真などに戦中の瓜連の姿を
記録されていました。


戦後

昭和27年の静神社磯降りの時の記憶
を多くの方が語っていました。
わざわざ、平磯まででかけて神輿を
見た人もおられました。
昭和30年代の瓜連小学校、通ってい
た学校に特別な思いをいだかれる方が
たくさんおられました。
また、火事の前の常福寺や旧栄橋の
写真は来客を少年・少女時代に連れ
戻したようです。


ポスター・資料集

昭和20年7月の米国の那珂湊への
艦砲射撃による砲弾破片
  『御霊の記録』:
平成2年にこの本が発行されたことを
知った住谷氏は早速印刷会社に連絡し
たが、在庫なしとのことであった。
粘り強く交渉して最後の1冊を手に
入れたものを、地域ごとに再編集した
ものを展示した。
戦中の暮らしを紹介する
ポスター類を展示した。

  戦後の映画ポスター類
戦後の昭和30年代は日本映画の絶頂
期。各市町村には映画館もできて
娯楽の花形であった。
  戦後の歌謡スター集
戦後、一斉に歌謡界も花開き、
歌謡スターがたくさん誕生した。





歴史探訪の旅
「県南・県西の史跡廻り」


日時 :令和元年10月22日(火) 8:00〜17:30
参加者:33名

 らぽーるに集合し、バスを利用して、茨城町の「小幡城址」、
つくば市の「平沢官衙遺跡」、下妻市の「大宝城址(大宝八幡宮)」、
つくば市の「小田城址」を探訪した。

「県南・県西の史跡廻り」の概要

小幡城址

小雨の中、8時にらぽーるを出発。
9時頃に小幡城址近くに到着。
小幡城は三方を湿地帯(現在は水田)
で囲まれたなだらかな丘を利用した
城である。
ボランティア・ガイドさんの丁寧な
説明をうけつつ、城址内をめぐる。
築城は1220年頃あるいは1420年頃の
二つの説がある。1570年頃に今の城
の形となり、重要な拠点として利用
されていた。
「堀底道」を通り、城の中心部へ。
両側にそそりたつ土塁に圧倒される。
土塁の上から矢を射かけられたとする
と、「全滅間違いなし」と思われた。
土塁の上の「櫓跡」で。
複雑に入組んだ郭や「変形武者走り」
などさまざまな工夫がみられる。
土塁と土塁の距離は短いので、鉄砲戦
には対応できなかったと思われる。
1590年に佐竹氏に攻められ、落城。
本丸の井戸には、落城の際にお姫様が
身を投げたという悲しい伝説が残る。
見学を終えて集合写真を撮る。
ガイドさんに感謝!!!

ありがとうございました。


平沢官衙遺跡

平沢官衙遺跡は、いまから1000年
以上前の奈良・平安時代の常陸国
筑波郡の郡衙正倉院跡と考えられて
いる遺跡です。
バスで、遺跡の案内所に到着し、
遺跡見学に向かいます。
平沢官衙遺跡の全景
遺跡は、筑波山から南に続く小丘陵
南裾部、筑波山西側を南流する桜川
左岸地帯に立地しています。
東西210m、南北150mの範囲内で、
建物跡64棟、竪穴住居跡25軒などが
確認されています。
発掘調査により、大型の高床式倉庫と
考えられる建物が数多く並び、それらを
大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。
つくば市により、高床倉庫3棟が復元整備されています。
これらの倉庫には、そのころの税である
稲や麻布などが納められていたのでしょ
う。建物の時期は8世紀初頭、8世紀前
半、8世紀後半、9・10世紀、11世紀
とされています。平将門の乱の頃は
どのようであったのでしょうか?


道の駅 [しもつま]で昼食

国道294号線沿いの道の駅
「しもつま」で昼食。


大宝城址(大宝八幡宮)

大宝城は平安時代から南北朝時代に
かけてあった。古代の騰波江
(とばのえ)跡の広大な湿原と大宝沼との間に突き
出た細い半島状の台地の上にある。
東・北・西の三方は断崖、南は土塁・空堀で囲まれ、東西288m、南北576mの規模であった。
現在は大宝八幡神社の境内になっている。南北朝時代の南朝方城主の下妻政泰の顕彰碑と万葉歌碑(6基)を見学した。
城址を歩いてたまった疲れを、
参道入口のお茶屋さんで癒した。


小田城址

小田城址は、鎌倉時代から戦国時代に
常陸国南部に勢力を持った小田氏の
居城址である。つくば市により、発掘
調査成果をもとに城跡の中央の本丸跡
とその周辺が復元整備された「歴史ひろば」の案内所を訪ねた。
学芸員の方から、小田城跡歴史ひろば
の概要について説明を受けた。
鎌倉時代、初代八田知家から、南北朝
時代の治久が北畠親房を迎え入れ、
親房が小田城で『神皇正統記』を執筆
したことなどを概観した。
案内所内に展示されている小田氏15
代、四百年の歴史絵巻を観覧した。
小田氏歴代当主の事績が立体的に展示され、とてもわかりやすかった。
本丸跡に復元整備された歴史広場を
散策し、往時の本丸の姿を偲んだ。


小田城址を探訪後、瓜連に戻り、17時30分ころに史跡廻りを完了した。




講演会「豊後国の二孝女物語が
    現代に問いかけたもの」

日時 :令和元年12月06日(金) 13:30〜15:30
場所 :ナザレ園盲老人ホーム(ホール)
出席者:35名

豊後国二孝女顕彰会会長の野上平氏ならびに青蓮寺住職藤井智氏を
を講師として、「豊後国の二孝女物語が現代に問いかけたもの」と題し、
講演会を開催しました。

講演概要
I 二孝女物語とその時代背景  
 1 物語の時代(文化年間:1800年頃)
   ・11代将軍家斉/水戸藩6代藩主(文公)から7代藩主(武公)
   ・農村の人口減少、役人の不正などの乱れる社会
   ・道徳教化運動(孝子、節婦、精農者の表彰など)が盛ん
 2 青蓮寺文書が発見された時代(平成17年:2005年)
   ・このころの社会問題:敵対買収・粉飾決算・インサイダー取引など
     (拝金主義・利潤追求主義・弱肉強食の社会)
   ・青蓮寺書庫から200年ぶりに二孝女関連文書が発見される
   ・平成18年三月『豊後国の二孝女』が発刊される
 3 『病父を訪ねて三百里』の出版された時代(平成22年:2010年)
   ・このころの社会問題:孤独死・所在不明、老親虐待問題など
   ・平成22年九月『病父を訪ねて三百里』が出版される

II 二孝女の悲願が叶った要因は? 
 江戸時代に病父を「常陸国から豊後国まで連れ帰る」という
 夢のようなことを実現できたのはなぜだろうか?その要因は?
 1 人間、つゆととき
   ・つゆとときの性格(自立、正直、誠実、礼節、勤勉)
   ・姉妹の覚悟(「死ぬる覚悟の旅」)
   ・強い「謝恩」の心
 2 途中であった見知らぬ人々から受けた好意
   ・見知らぬ人々からの好意
     食べ物、川越での取り計らいと人足の情け、
     臼杵藩士との思わぬ出会いなど
 3 臼杵藩江戸留守居役の慈悲深き配慮と菩提寺善正寺の親切
   ・留守居役による支援(路銀、水戸藩・青蓮寺への要望など)
   ・善正寺の親切(父子に代わっての謝礼と現況報告)
 4 青蓮寺の手厚い看護と村人たちの親切
   ・青蓮寺における室女・僕らによる手厚い看護
   ・医師(猿田玄碩)によるいたはり、施薬
   ・帰郷の際の村人たち、寺社による激励
 5 水戸藩の温情ある取り計らい
   ・水戸藩主・寺社奉行所・郡奉行所と藩吏の支援
    (かご、扶持米などの用意、諸手続きでの配慮など)

III 二孝女物語が現代社会に問いかけたもの 
 1 先人が大切にした心と生活規範
   ・心   …和・慈悲・清明心・正直・誠の尊重
   ・生活規範…『徳』の実践を日常生活に生かそうと努めた先人
 2 心豊かな江戸時代の社会 「お心肥やし」
   ・領民を大切にした武士・役人…人道主義、法規は柔軟に解釈
   ・「慈悲の徳」の実践
 3 日本人の西洋化を憂慮した外国人識者
   ・まとめ…「不易流行」、「和魂洋才」で二孝女物語を生かす。



          講演会の様子(2019年12月06日)

 講演の詳細については、野上平氏により作成された
 下記資料を参考にして下さい。

講演レジュメ「二孝女物語が問いかけたもの」

参考資料
(1)豊後国の二孝女研究会編、『豊後国の二孝女』、青蓮寺、平成18年.
(2)橋本留美、『実話 病父を尋ねて三百里 豊後国の二孝女物語』、
  新日本文芸協会、平成22年.
(上記の参考資料は常陸太田市東連地町200の青蓮寺で購入できます)


(補足)講演会に先立ち、11月8日に青蓮寺を訪問した。

 青蓮寺に到着
青蓮寺の本堂に向かう。
 豊後国二孝女の碑
常陸国の青蓮寺で病に臥していた父を
尋ねて、文化8年(1811)豊後国から
二人の姉妹(つゆととき)は三百里の
道を二か月かけて青蓮寺にたどりつい
た。
 初衛門住居跡
姉妹の父初衛門は7年前、親鸞聖人
遺跡巡礼の旅の途中病に倒れ、青蓮寺
で手厚い看護を受けていた。
 本堂前で
青蓮寺本堂で藤井住職のお話をうかが
った後に、寺内を見学した。
最後に本堂前で集合写真をとった。
 青蓮寺本堂
本堂は、約200年前に二孝女が来訪
した時のものが現存している。





見学会「佐竹氏−800年の
    歴史と文化」

日時 :令和2年2月14日(金) 14:00〜15:30
場所 :茨城県立歴史館
出席者:35名

 茨城県立歴史館で開催されている特別展『佐竹氏−800年の歴史と
文化ー」の見学会を開催しました。
 佐竹氏は、古代末・中世の常陸、そして近世の出羽秋田にて、およそ
800年の歴史を刻んだ武家である。特別展では、
(1)平安時代末期から鎌倉時代の佐竹氏創生の足跡
(2)南北朝時代における佐竹氏発展の契機
(3)室町時代前半の佐竹100年戦争、佐竹氏の支配体制が整う過程
(4)室町時代後半、戦国時代における外部から迫る難敵との抗争
(5)安土桃山時代、豊臣秀吉の承認を得ての常陸統一
(6)関ヶ原合戦後の、徳川家康による秋田移封
(7)江戸時代における佐竹氏の修史事業
と佐竹氏の歴史を通覧するとともに、
(8)禅の教えを絵画の形で表現した雪村と、時宗僧の普光の業績、
(9)佐竹氏の富の源泉としての製塩と産金
に関する特論を併せて、佐竹一族の歴史と文化の実像に迫っていた。
 瓜連を取り囲む領域の歴史を総合的に把握する機会が得られて、有難かった。また、瓜連で発掘された板碑や弘願寺の滝見観音図などを知ることが
出来たのは、貴重な経験であった。






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